最期まで「からだ」を使い切り、家族に「こころ」を残した患者さんの話
佐々木 淳/佐々木 淳 @医療法人社団悠翔会 理事長・診療部長
在宅医・内科医
今回は、肝細胞がんの治療と再発を繰り返し、5年間で8回の入院を経た後、僕が在宅医としてフォローを行った患者さんの話をします。
「自宅で死を待つために帰ってきたんじゃない」
彼が肝細胞がんと診断されたのは52歳の時。
治療と再発を繰り返し、5年間で8回の入院。局所治療やカテーテル治療などを重ねてきましたが、がんの勢いをコントロールするのが徐々に難しくなってきました。
腫瘍はついに門脈本幹に侵入、消化器内科の主治医は放射線治療を提案しました。
彼は予後の見通しが3か月程度であること、放射線治療は効果があったとしてもそれを劇的に延ばすものではないことを主治医に確認すると、迷うことなく治療を中止し自宅に帰ることを選択しました。
一見、元気そうには見えるものの、今回の入院で骨格筋はさらに減少し、食欲や食事量も低下、すでに悪液質が進行しつつありました。
腫瘍が門脈本幹を閉塞すれば急変もありうる。
まだ自力歩行が可能な状態ではありましたが、僕は彼の在宅でのフォローを託されることとなりました。
退院同日、彼の家を訪問しました。
彼は妻と二人の高校生の息子、そして一匹の小型犬とともに暮らしていました。
少し古いが居心地のよいマンション。奥さんに導かれて彼の部屋へ。
そこはシステムエンジニアとして10年前に独立した彼の仕事場でもありました。大きなディスプレイが2つ並んだデスクの前に、穏やかな表情で腰掛ける無精ヒゲの男性の姿がありました。
部屋に足を踏み入れようとしたとき、それを遮るように彼の長男が僕に声をかけました。
「先生、お願いです。父を説得してください」
父親に少しでも長く生きていてほしい。良くなる可能性がわずかでもあるなら病院で治療を受けてほしい。家でこのまま弱って死んでいくのを見ていくだけなんて、どうしても受け入れられない。
長男の目には涙が浮かんでいました。
「なぜ治療を終了すると決断したのか、お父さんの気持ちをもう一度確認してみましょう」
目の前で長男と僕のやり取りを見ていた彼に、単刀直入にその理由を尋ねてみました。
「引き受けた仕事があるんです。
信頼して任せてもらった仕事です。すでに前金も受け取っている。
お世話になった人たちに迷惑はかけられない。
なんとしても完成させたい。
先生、それまで僕を生かしてください」
自宅で死を待つために帰ってきたんじゃない。
やるべきことをやるために帰ってきたんだ。
長男はそんな父親の決意の固さを感じたのか、口を閉ざしました。
引き受けた仕事の完成に必要な期間は3か月。
黄疸、腹水、肝性脳症…すでにさまざまな症状が出始めています。長時間の座位はすでに難しく、これまでと同じペースで仕事ができるとは思えない状態でした。
果たして間に合うのか。
不安を抱えたまま、彼の人生最後のチャレンジが始まりました。
「先生、握手」
在宅主治医としての僕のミッションは彼の仕事を完遂させることでした。
苦痛を緩和しながら業務に必要な意識レベルを維持する。
そして余命3か月の末期がん患者に「3か月間の作業能力」を確保する。
僕にとってもチャレンジでした。
厳しい予後の見通しを受け入れ、使命を果たすために自宅に帰ってきた彼は、僕の前では笑顔を絶やすことはありませんでした。それでも時に、自分の存在がこの世から消えてしまうことに耐え難い苦痛を感じているようでもありました。
ある時、診療を終えて帰ろうとすると、「先生、握手」と彼が手を伸ばしてきたのです。
その手を握ると、彼は両手で僕の手を覆うように握り返し、そこに額を重ねて静かに涙を流しました。
「いい家族に恵まれた。
本当に幸せな人生だった。
二人の息子は本当に素晴らしい子どもたち。
大人になるのを見届けたかった。
それができないのだけが残念なんです。
仕事に打ち込んでいるときは病気のことを忘れられた。
しかし、これまでは意識せずにできていた作業の一つひとつに困難さを感じるようになると、四六時中、病気の存在と向き合うことになる。
それが少し辛いです。
だけど、先生と握手すると安心できます」
診療を終えた後の握手が二人の約束のようになっていました。
その後、全身状態は少しずつ悪化、座っていられる時間は短くなっていきました。
しかし、彼は日々作業に打ち込んでいました。
そして亡くなる3日前までパソコンに向かい、ついに使命を果たし、そして眠るように呼吸を止めたのです。
一週間後、改めてお焼香に上がらせてもらいました。
玄関で出迎えてくれたのは彼の自慢の二人の息子たちでした。
長男が僕に対して口を開きます。
「なぜあの時、父親を説得してくれなかったのか」
そう責められるのではないか。そう思い、頭の中で返答を探しました。
しかし長男の言葉は違いました。
「先生、父を最期までサポートしてくれてありがとうございました。
最高にかっこいい男でした。
僕も父のような男になりたいです。
仕事のために帰ってきたと言っていたけど、
僕らと一緒に過ごす時間を作るために帰ってきてくれたんじゃないかと思っています」
彼が何よりも望んでいた『二人の息子の成長を見届けること』。
それを果たすことはできませんでした。
しかし、彼は自分自身の生き様を通じて、父親としての務めはしっかりと果たしていたのです。
彼は、これからも家族の心の中で夫として、父親として、そして息子たちの目標として生き続けるでしょう。
在宅での看取りとは、自宅で衰弱の過程を見守り、生命活動の停止を医学的に診断することではありません。
それは最期まで本人が生命力を最大限発揮できる環境を整えること、そして本人の回復を阻害する要因を排除し、生命力の消耗を最小にするよう生活を整えていくことです。
そのために必要なもっとも重要な要素は「生きる理由」です。
何のために生きるのか。それが明確ならば、どのように生きるのかはおのずと決まります。
在宅患者の多くは、治らない病気や障害とともに人生の最終段階を生きています。それでも僕らは、その人が「生活」を取り戻すことを諦めません。
身体面(個人因子)への介入に限界があるからこそ、生活(環境因子)に働きかける。在宅医療は、その人らしい暮らしを取り戻すお手伝いをすることで、「こころ」と「からだ」を整えていく実践でもあります。
「からだ」は生活によって生かされ、「こころ」は生活を通して変化します。
逆に言えば、生活が整わなければ「こころ」も「からだ」も整わないのです。ナイチンゲールの疾病論に基づくケアの原理そのものです。
彼は「生きる目的」とともに自宅に帰ってきました。
病気の治癒は放念しましたが、仕事を続け、家族とともに大切な時間を重ねながら、最期まで生活を続けたのです。
見事に最後の最後まで「からだ」を使い切り、そして生活を共有した家族のもとに「こころ」を残して旅立って行ったのでした。
看取るとは、生活を通じて「いのちをつなぐ」こと
しばらくしてから、奥様からお手紙をいただきました。
彼が空を自由に飛び回っている様子が描かれた銅版画とともに、次のようなメッセージが添えられていました。
***
暑い日が続きます。みなさまお変わりありませんか?
先般、夫の永眠の際は、厚いご配慮をいただき、本当にありがとうございました。
心からお礼申し上げます。
たくさんの友人、知人に囲まれ、57年生きた地上から、いつも以上の笑顔で旅立ったに違いありません。
死を想う時にこそ、人は「生」の重みと喜びを実感するのですね。
癌により肝臓がほぼ機能しなくなった亡くなる10日ほど前、
「本当に楽しかったよ。モノを創っている人はおもしろい。そういう人の手助けをするのが一番楽しいよ」と静かに語ってくれました。
多くのクリエイティブな友人たちの心にこの言葉が届きますように。
最後の仕事は居住マンションの緊急時用の電源確保のためのソーラーシステムでした。
見事にやりとげました。
近隣のみなさまにも気持ちが届きますように。
愛用のMACは今もスリープ状態です。
穏やかな点滅が呼吸し続けています。
わたしたち家族とともにいつまでも。
***
生きるとは、命ある限り生活を紡ぐこと。
看取るとは、生活を通じて「いのちをつなぐ」こと。
その人が死んでも、家族の暮らしは続きます。
そして肉体は消えても、その人は家族の心の中に生き続けるのです。
暮らしの中にある生病老死と向き合いながら、在宅医療は「生活」に伴走していきます。
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医療法人社団悠翔会 理事長・診療部長佐々木 淳
1973年京都市生まれ。手塚治虫のブラックジャックに感化され医師を志す。1998年筑波大学医学専門学群を卒業後、社会福祉法人三井記念病院に内科研修医として入職。消化器内科に進み、主に肝腫瘍のラジオ波焼灼療法などに関わる。2004年、東京大学大学院医学系研究科博士課程に進学。大学院在学中のアルバイトで在宅医療に出合う。「人は病気が治らなくても幸せに生きていける」という事実に衝撃を受け、在宅医療にのめり込む。2006年、大学院を退学し在宅療養支援診療所を開設。2008年、法人化。医療法人社団悠翔会・理事長に就任。2021年より 内閣府規制改革推進会議専門委員。
現在、首都圏ならびに愛知県(知多半島)、鹿児島県(与論町)、沖縄県(南風原町・石垣島)に全24拠点を展開。約8,000名の在宅患者さんへ24時間対応の在宅総合診療を行っている。
編集:林 美紀(看護roo!編集部)
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