「一度入れた人工呼吸器は外せない」は誤解|医療の有益性より患者の意思を尊重すべし

【日経メディカルAナーシング Pick up!】

 

聞き手:小板橋律子=日経メディカル

 

 

国立長寿医療研究センター病院で終末期患者のケアに深く関わる西川氏は、厚生労働科学研究費補助金で開発された「意思決定支援教育プログラム(E-FIELD:EducationForImplementingEnd-of-LifeDiscussion)」に沿い、瘻や人工呼吸器などの延命治療の差し控えや中断、継続といった倫理的な判断の支援にチームで取り組んでいる。

高齢者患者さんの手の写真

国による「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」に基づいた、エンド・オブ・ライフケアの基本的な考え方を聞いた。

 

 

エンド・オブ・ライフケアチームとは、どのようなことをするチームなのでしょうか。

西川 エンド・オブ・ライフケア(EOL)チームは、医師、老人看護専門の看護師、薬剤師、ソーシャルワーカー、管理栄養士からなるチームです。

国立長寿医療研究センター病院エンド・オブ・ライフケアチーム医師の西川満則氏

 

2011年に発足し、院内の依頼を受けて活動しており、これまで累計で約1000人の患者に対応しています。依頼を受ける内容の約半分は非癌患者に関するもので、そのうち7~8割程度が倫理判断支援となっています。

 

倫理判断支援とは、延命治療に関連する介入の差し控えや中断、継続など、医療者と患者・家族とで何らかのジレンマが生じた際に、その間に立って考え方を整理し、判断を支援するものです。

 

我々が倫理判断支援を行う上で最も大切にしていることは、患者本人の意思を治療に反映することです。

 

ただし、認知症などで判断力が十分にない患者も多いので、現在の気持ちだけでなく、過去の発言など、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)の考え方に沿うことを大事にしています。

 

「元気な頃にどうしたいと言っていたか」を家族などから聞き出し、その人の人となりを考えながら、今、意識があれば本人はどう判断するかを慎重に推定します。

 

過去も現在も患者の希望が一致していて、本人の気持ちを家族が尊重するという場合には、胃瘻や人工呼吸器の非導入や中止も選択肢となります。

 

 

本人が嫌がっていても、医学的に見て有益な場合、医療者はその治療を勧めたい、受けてほしいと思い、臨床現場では本人の希望との間にジレンマが生じることが多いと聞きます。

西川 そうですね。

患者本人の意思と家族の希望が乖離したり、本人の希望と医学的判断が乖離することはよくあります。

 

医療者側は、「本人が『イヤ』といっていても、高齢だからという理由で過少な治療をするわけにはいかない」「医学的にみて良くなるのは明らかだから、ここで介入しないのは医療倫理に反する」など、医学的判断を知らず知らずのうちに患者に押し付けてしまいがちです。

 

そこで大切になるのが、基本原則です。本人の意思と医学的判断がずれる場合、2つのパターンがあります。

 

1つは、抗癌剤治療など本人はやりたいと考えているが、医学的に見て適応ではない場合。

 

もう1つは、本人は「イヤだ」と言っているのに、医療者側がもう少し頑張れば良くなると考える場合です。

 

前者については、医学的に適応のない治療はできません。これは鉄則ですので、このことに反論する医療者はいないでしょう。

 

では、後者の医学的に有益と考える治療を患者が嫌がった場合はどう考えるべきでしょうか。

 

まず、医療者は患者が「イヤ」という理由を聞き出して受け止めた上で、治療を勧める理由をきちんと説明し、受けてみるよう説得する必要があります。

 

そして、その次が重要です。

もしきちんと説明し患者がその内容を十分理解した上で、「やっぱり、いいです」と拒否する場合は、その意思を尊重しなくてはならないのです。

 

ここは、医療倫理として大切にしなければいけない、一丁目一番地の大原則です。

 

もう一度整理すると、判断材料として最も重視すべきは「医学的無益性」、我々は無益と思った治療をしてはいけない。

 

そしてその次に尊重すべきは、「本人の意思」です。本人がはっきりと意思を表明できない場合には推定意思も含みます。

 

そして三番目に来るのが「医学的有益性」です。

 

本人の意思よりも医学的有益性が上に来てはいけません。これが倫理的判断の基準です。我々はいかなるときも、ここに軸足を置かなければいけないのです。

 

そしてこれらに加えて、「苦痛がない」「本人が今まで歩んできた人生の物語」「家族の感情への配慮」「地域の医療資源の制限」なども考慮する必要があります。

 

こうした考え方は、「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」に基づく「意思決定支援教育プログラム(E-FIELD:EducationForImplementingEnd-of-LifeDiscussion)」に沿ったものです。

 

ちなみに、E-FIELDは、2013年度厚生労働科学研究費補助金厚生労働科学特別研究事業「人生の最終段階における医療にかかる相談員の研修プログラム案を作成する研究」で開発されました。

 

例えば、認知症が進行し誤嚥性肺炎を繰り返す患者。医療者側は病院で治療を受ければ治る可能性があると考えて、患者・家族に勧めますね。

 

それに対して家族が「これ以上はいいです」と言った場合、どうしたらいいのか。我々は「本人はどう思うだろうか?」と必ず問います。

 

家族が本人の意思を推定して、「本人も行きたくないと言うと思う」と言えば、その推定意思を尊重します。これは、いわゆる「みなし末期」とは異なります。

 

「治療すればもう少し生きられるかもしれないが、高齢だから、認知症だからこれくらいでいいだろう」と医療者側だけで決めてしまうのが「みなし末期」。これは医療者側の主観を押し付けているだけですからいけません。

 

我々は、患者本人が一番望むのは何かをチームで考え、患者の過去・現在の言動からもそれを一生懸命推定して、その結果として「治療しない」と決めています。

 

最終的に「治療しない」という判断をすることは同じかもしれませんが、そこに至るまでの過程は大きく異なるわけです。

 

私自身が心肺蘇生に関わった症例についてもお話します。

 

認知症が進み、寝たきり状態の高齢患者が呼吸停止となり、その時点で本人の意思を確認できなかったため、気管挿管・心肺蘇生をしました。

 

心拍が再開したのち、家族から「本人は人工呼吸器下での延命は望んでいなかった」と聞かされ、また、家族も患者本人の意思を尊重したいとのことでした。そのため倫理カンファレンスを開き、検討しました。

 

この患者は、その後、人工呼吸器から離脱できる可能性はまずなく、自分で動くこともできない状態であり、また、患者・家族の意思も一致したものであることを確認し、チームで本人の最善を考え、人工呼吸器を外すこととしました。

 

その患者は抜管後、数時間で亡くなりました。

 

もし、心肺蘇生をする前に本人の意思を確認できていたら、そもそも心肺蘇生をしないという選択肢もありました。

 

望まない人に心肺蘇生をしないことと、一度挿管した人工呼吸器を外すことは倫理的にも法律的にも同じです。

 

「一度入れた人工呼吸器は外せない」という誤解が医療者の中にもありますが、人工呼吸器のように、その治療を中止することで患者が死亡するようなものであっても、我々は患者の意思を尊重すべきなのです。

 

とはいえ、関わる人間にとって、心肺蘇生をしないことと、人工呼吸器を外すことは感情的に大きな違いがあることもまた事実ですが……。

 

胃瘻に関しても同じです。胃瘻を造設しないと、水分を全く取れない場合には数日で看取りとなります。

 

家族が胃瘻を望まない場合、本人はどう考えると思うかをしっかり確認し、本人も望まないという推定意思が確認できたケースでは胃瘻造設を差し控えています。

 

その際、院内では家族が望めば末梢点滴を行うこともありますが、心不全などで点滴が害を生じるリスクがある場合や、穿刺のたびに患者が嫌がるそぶりを示す場合は点滴をやらないことも選択肢です。

 

末梢点滴を行うと看取りまで3~4週間かかり、こちらの病院では看取れず、療養型の病院に転院してもらわなければならないことがあります。

 

これは、先ほどお話しした「地域の医療資源の制限」から生じます。医療資源に限りがある以上、倫理的公平性を考え、転院をお願いせざるを得ないわけです。

 

私は特別養護老人ホーム(特養)でも診療していますが、私が診療している特養では、終末期の患者に末梢点滴もしていません。

 

呼吸苦などが生じた際に対応するため適応外ながらモルヒネを用意してもらっていますが、モルヒネが必要な状態になる患者はほとんどおらず、自然に穏やかになくなられています。

 

個人的には、点滴をしない方が穏やかに苦しまずに死を迎えられるのではないかと感じています。皮下輸液という輸液法もありますが、末梢点滴とあまり差がないのではないかと思います。

 

特養では、既に胃瘻が造設されている患者もいます。患者家族から要望がない場合は、体に負担が出ていないときはそのまま人工栄養を続けることが多いのですが、徐々に嘔吐して肺炎を生じるなど、有害事象が生じてきます。

 

これは、胃瘻からの人工栄養を受け付けなくなったサインです。すなわち医療の限界、医学的無益性が生じているわけです。

 

そうなれば、人工栄養量を減らす必要があります。そして徐々に人工栄養の量を減らして、最終的にゼロになり、お看取りしています。

 

 

自己抜去は患者の『イヤ』というサイン
本人の意思を尊重すべきというのはよく分かるのですが、医学的には終末期といえないような場合、医療者側は治療を受けてほしいですよね。

西川 基本は、「本人の意思」は「医学的有益性」よりも尊重すべき、です。

 

しかし、医学的に有益であることを患者家族に手を尽くして説明して、治療を受けてもらうよう努力することも、我々の仕事です。

 

例えば、先日、一般的に考えるとまだ終末期とはいえない段階のアルツハイマー病患者が食事を摂らなくなりました。

 

一般的な症例に比べて経過が早いだけかもしれないし、薬の影響など何らかの理由があるのかもしれないということで、我々は知恵を絞って考えました。そんな中、精神科の医師がうつ病を合併している可能性を指摘してくれました。

 

もしかしたら回復するかもしれないと、うつ病の治療を開始することとしましたが、その治療薬は点滴で投与する必要がありました。

 

もしかしたら回復するかもしれない治療でも患者が嫌がるものを無理矢理やるのはルール違反です。そこで、点滴を患者が自己抜去するようであれば、治療は中止すると意思統一した上で取り組みました。

 

認知症の患者であれ患者が点滴を自己抜去するのは、転んで抜けたといった理由でない限り、「イヤ」というサインと受け止めるべきと我々は考えています。本人が嫌がるものを拘束してまでやるのはよくありません。

 

その患者に投与した薬は効果が出るのに2週間かかるため、投与3日目で不穏が出れば、通常医療者は「あと11日の辛抱」と拘束しがちですよね。

 

でも我々は、そうなったら撤退すると決めた上で治療介入しました。治療介入すると決めたら、患者の最善につながるよう全力で取り組みます。

 

点滴中に患者の腕をさするなどのケアを徹底して行ったところ、その患者は自己抜去することなく治療を受け、その結果、食事も摂れるようになりました。

 

医療現場では、特に医療者側は、医学的にできることを頑張って受けてもらおうと考えてしまいますよね。

 

これまで医療者は、食事ができなくなった認知症患者に対して、「血清アルブミン値が低下しているから肺水腫が生じている。栄養を摂ったらアルブミンも改善して元気になるはず」との医学的判断から、胃瘻を造設して人工栄養を投与してきたと思います。

 

しかし、人工栄養を入れてもアルブミン値が改善することはまずなく、肺水腫は悪化し、肺炎を繰り返す――というのがパターンだったのではないでしょうか。

 

主治医の「良くなる可能性があるから頑張ろう」で、もっと苦しみながら亡くなっていった患者が多かったのではないか。

 

このような主治医はまじめな方が多く、家族はできる限りのことをしてもらったと感謝することが多いかもしれません。でも患者本人にとって、それは最善だったのか……。

 

最初にお話しした倫理における優先順位を知っておくと、倫理的ジレンマに苦しめられることは少なくなるのではないでしょうか。

 

また、特に認知症のように後天的な疾患では、その人らしさがあった時期が必ずあるわけで、そのときのその人らしさを尊重しようと考えると、自ずと答えが出てくることも多いように思います。

 

とはいえ、我々にも、患者家族にも感情があります。様々なことが感情に左右されますよね。私自身も、日々悩みながらやっているのが正直なところです。

 

 

<掲載元>

日経メディカルAナーシング

Aナーシングは、医学メディアとして40年の歴史を持つ「日経メディカル」がプロデュースする看護師向け情報サイト。会員登録(無料)すると、臨床からキャリアまで、多くのニュースやコラムをご覧いただけます。Aナーシングサイトはこちら

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