病院と施設での死のちがいとは?元脳神経外科ナースの看取り観
私は、これまで脳神経外科病棟と特別養護老人ホームという全く異なる環境で働き、死の迎えかたがこれほどまでに違うのかと衝撃を受けました。看護師としてそれぞれの死の瞬間に向きあいながら、改めて「死の迎えかた」について考えていることを書ければと思います。
【たかはしまりこ】看護師8年目。脳神経外科病棟で勤務後、子育てとの両立のため特別養護老人ホームに転職。現在も施設看護師として勤務中。
病院と施設での死のちがいとは?元脳神経外科ナースの看取り観
病院での死と老人ホームでの死のちがい
私が看護師として勤務していた急性期病院のしかも脳神経外科に限っていうと、死の迎え方は突然であることが多いように思う。突然発症し、または急変によって、家族は急な死の現実に直面する。
一方、特別養護老人ホームでは、病院とは違い、徐々に死に向かう利用者を「看取る」。
特別養護老人ホームは「終の住み家」の役割も担っている。実際は、医療の制限があるため病院に搬送され、結果的に病院で最期を迎えるというパターンが多かったので施設での看取りはまだまだ数が少ないものの、病院での最期ばかりを見てきた私は、特別養護老人ホームでの最後を目の当たりにして、衝撃を受けた。
病院での死―脳神経外科での「予測がつく」死とは
まず、私が脳神経外科病棟で見てきた「死」を思い返してみる。
脳梗塞、脳出血、くも膜下出血などの脳血管疾患は、大体が突然発症しその後の予後は大きく3つに分かれる。治癒するか、後遺症が残るか、亡くなるかだ。
脳腫瘍に関しては亡くなる過程において長引くこともあったけれど、私の働いていた脳神経外科で亡くなる人のほとんどは急な死を迎えるパターンが多かった。
またCTやMRIで脳の状態がすぐに分かるためある程度「余命」を読めてしまうことが多い。どう頑張っても一週間位だろうとか、もう数日だろうとの予測がつく。
CTで全脳虚血状態、いわゆる脳死に近い状態が確認された場合は「確実に亡くなるだろう」という判断になるため、医師は「延命はどこまでされますか。」と家族へ尋ねる。
そうなると、私たち看護師は「どのくらいで亡くなる」という現実的な「余命期間」が読めている状態で関わることになる。
「その人が誰か」を知るには短すぎる死
そういうときの患者の姿を思い浮かべてみる。患者は人工呼吸器につながれ、IVHで補液され、時には昇圧剤を使用し、Baカテーテルで排尿管理し、モニターで管理されたいわゆる「スパゲッティ症候群」の状態。そして、亡くなる時には手術のために坊主にした頭に包帯が巻かれ、全体が浮腫み、生前の面影は感じ取ることができない。
中には発症数時間で亡くなる人もいる。一体この人がどういう人で、どういう人生を歩んできたのかを考える時間はなかった。知ることができるのは入院時の問診票の中と短い入院期間に家族に聞くくらいだが、たかが知れている。その人にとっての何十年分の人生を理解するには短すぎる。
病院で鳴り響くアラーム音
また病院では常にモニター管理されており、数十分から数時間刻みでバイタル測定している。亡くなる頃になると血圧や脈が乱れるためモニターは異常を表すアラームが常に鳴っている。
家族はその音に常に反応し「少しでも補液したほうが楽なんじゃないか。」「苦しくないのか、酸素はいらないのか。」「今、体の状態はどうなっているんだろう。」と、不安を感じていることが多い。
異常音を示すアラームの音は家族にとって「苦しさ」や「辛さ」のサインに聞こえるのである。
家族だけでなく私たち看護する側も疑問が多く浮かび、これでいいのかと不安になることもたくさんあった。
思い返してみると、癌などの患者と違い、急に発症して数日間の間に亡くなる患者が多い脳神経外科においては「終末期の看護」はさほど重きを置かれることはなかったように思える。それはある意味、余命が分かることで、看護師や医療者の中で「脳神経外科での死」がパターン化されていたからかもしれない。
特養での看取り―看護師として初めて知った「その人らしい死」
一方、特別養護老人ホームに職場が変わると、ターミナルの概念を全く別のものとして考えなくてはいけなくなった。
看取るのは、(もちろん既往に様々な疾患を抱えているが)老衰で死にゆく人である。食べられなくなっても、点滴などの無理な栄養は入れずに、静かに亡くなるのを見守っていく。
これまでの経験と違うのは、「余命」が読めないということだ。CTやMRIで画像として見えるものもないし、モニターに繋がれているわけでもないから、看護師が簡易的に測る血圧計や体温、SPO2値しか数字として表れるものはない。データとして分かることは限られており、あとは自分の経験と観察力だけが頼りになる。
そこに、アラーム音はない。
治療するのが当たり前の病院と違い、施設では枯れるように亡くなっていくのを見守っていく。
時には急死もあるが、死の時間をゆっくり迎えるため家族も少しずつ現実的に、死を受け入れられるようになってくる。
患者に対するケアも、その時間の中でできるさまざまなことを行う。たとえば食べたいものを食べられるように食事を調整したり、家族と一緒に旅行に行けるよう援助したり。
施設での看取りは、「その人らしく亡くなること」を手助けすることなのだと思う。
初めて施設で患者さんを看取ったときに、何にも繋がれず、浮腫みもない、その人と認識できる死に顔を見た。これがよく世間が言う「穏やかで眠ったような亡くなり方」なのだと、こういう亡くなり方もあるのかと思った。
看護師として、「亡くなり方」は知っていると思っていたのに。
どんな死を迎えたいか。どんな死を迎えさせたいか。
死に対する概念は人それぞれであり、死の迎え方も様々である。
病院での死を望まれる家族も多い。それは実際に死と関わり、向き合うことが一昔前と比較して圧倒的に少なくなったからなのではないかと思う。死は非日常的であり、恐怖であり、受け入れがたい事実であるため、医療者のプロのいる病院で迎えられるなら、本人も安心だと思うのではないか。
だが本人の気持ちはどうだろうか。
家族は本人の安心を望んでいるのかもしれないが、どちらかといえば病院にいて安心しているのは家族の方ではないだろうかと感じることも多々あった。
病院では「母は延命はしたくないと言っていました。」「管には繋がれたくないって話していました。」といった話は聞くが、本当にそうかはわからないし、ましてや書面に残しているという人には出会ったことがない。そのため家族が様々な決断を下さなければいけない。その決断によっては、「もしかしたらこの選択によって死んでしまったのではないか。」「苦しんだんじゃないか。」という罪の意識に苛まれたりする。
私たち看護師は、そんな家族に付き添うことが多い。だからと言って私自身もまだ「自分や家族の最期」については真実味がない。看護師であっても一人の生身の人間であり、分かっているようで分かっていなかった、知っているようで知らなかったことが次々に起こる。
家族だけでなく、本人にとっても「その人らしく」亡くなることとはどういうことなのか。
私はどうだろう。看護師としてではなく、一人の人としていざ死ぬとき、自分の最後を選択できるだろうか。
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