ジョイス・トラベルビーの看護理論:人間対人間の関係モデル
『新訂版 実践に生かす看護理論19 第2版』(サイオ出版)より転載。
今回はジョイス・トラベルビーの看護理論、「人間対人間の関係モデル」について解説します。
脇本澄子
松本大学松商短期大学部健康安全センター 保健師
- 看護とは、人々が病気や苦難を予防し、それに対処できるように、またそのなかに意味を見いだせるように援助することである。
- 看護の目的は人間対人間の関係の確立をとおして達成される。
- 人間対人間の関係は、1.最初の出会い、2.アイデンティティの出現、3.共感、4.同感の段階を経て発展し、5.ラポールで人間関係の確立に至る。
- ラポールを体験するなかで、看護師は看護行為を創造し、患者は苦痛を緩和することができる。さらにこの体験をとおして、両者はお互いに人間的に成長する。
- ラポールは変化のきっかけである。人間は常に生成・進化・変化のプロセスのなかにいるため、ラポールへの努力は継続的でなければならない。
トラベルビーの看護理論
トラベルビーは、看護を次のように定義している。
“Nursing is an interpersonal process whereby the professional nurse practitioner assists an individual,family,or community to prevent or cope with the experience of illness and suffering and,if necessary,to find meaning in these experiences.”
「看護とは、専門的な看護実践者が、個人・家族・あるいは地域社会が病気や苦悩の体験を予防し、あるいはそれに対処し、そして必要であればその体験のなかに意味を見いだせるように援助する人間関係のプロセスである」(1971/脇本訳)
トラベルビーの看護理論は、対人関係のプロセスを基本としており、「人間対人間の関係モデル」としてカテゴリー化されている。
看護師は「患者─看護師」という関係ではなく、「人間─人間」の関係を確立しなければならないと主張し、1対1の対人関係に終始こだわり続けた。
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人間対人間の関係
「人間対人間の関係は、基本的に1人の看護師とそのケアを受ける人との間に起こる1つのあるいは一連の体験である。これらの体験の主な特徴は、個人(あるいは家族)の看護上のニードが叶えられる、ということである。人間対人間の関係は専門的な看護実践者によって、意図的に確立され、そして維持されるものである」(1971)
人間対人間の関係(human to human relationship)は、一方通行ではなく、相互的なプロセスである。両者の関係は、看護師だけによって確立されるわけではない。
両者が関係性をつくり、その共通体験の結果として看護上のニードを満たしていくのである。
しかし、その関係性を確立して維持していく責任は、看護師に課せられている。
人間対人間の関係は、“偶然に生じる”ものではなく、看護師によって慎重に、意識的に計画されて築き上げられるものである。
では、「人間対人間の関係」はどのような過程を経て確立されるのだろうか。
1人間対人間の最初の出会い
人間対人間の最初の出会い(phase of the original encounter)とは、お互いが知覚や言語的・非言語的コミュニケーションを通じて相手を観察をし、「第一印象」つくる段階である。
ある人が、出会った人に対してどんなことを感じ、知覚するかは、相手に対してのその後の行動や反応の仕方を決定づける傾向にある。
この段階で、看護師は自分が他の人をどのような方法で知覚しているのかということを自覚しなければならない。
その相手が「一患者」として知覚されるか、「1人の人間」として知覚されるかは、その後の関係性の確立を左右する。
看護師がこれまでにも出会ったタイプの「患者」として相手を知覚した場合、人間対人間の関係確立は不可能なものになってしまう。
最初の出会いの段階では、患者はもちろん看護師を「看護師さん」として知覚する。そのステレオタイプの知覚を修正しながら、関係性を確立していくのは、看護師の役割である。
「自分は確かに看護師ではありますが、あなたと同じように1人の人間です」と表現し、伝えていかなければならない。
もし両者が「患者─看護師関係」に止まってしまっているとすれば、それは看護師の責任である。
2アイデンティティの出現
アイデンティティの出現(phase of emerging identities)とは、最初の出会いで、お互いを1人の人間として知覚した後、相手が自分の状況をどのように感じ、考えているのかを察知し始める段階である。
反対にケアを受ける人も、看護師を1人の人間として知覚し始める。
お互いに自分自身と似ているところとそうでないところを認識し、そして理解できるようになり、人間関係の絆が形成されはじめる過程である。
トラベルビーは、「自分があなたの立場だったらどんな気持ちがするか、私にはわかります」という看護師は、相手の独自性を知覚できていないと述べている。
その看護師は、「患者をとおして、自分自身をみているだけである」というのである。
他人との相互のつながりはもちろん大切である。しかし、同じように体験を分離し、独自性を見いだすことも重要である。
他人の独自性を知覚する能力は、「自分自身を基準にして他人を評価すること」によって妨げられてしまう。
看護師は「患者を評価」するのではなく、「自分自身と相手との間の差異を評価」しなければならないのである。
3共感
共感(phase of empathy)とは、個人が他の人の心理状態を理解できるようになる過程のことを指す。
共感のプロセスは、対象になっている人の行動を予測する能力に通じる。共感は偶然に起こるのではなく、それが発展していくためには以下の2つの必要条件があるとされている。
①相互の類似性
共感は、関与した人同士の類似体験に左右される。体験したことがないことを理解したり、予測したりすることは難しい。
他人の独自性を理解することができても、看護師のなかに類似の背景や体験がなければ、共感はできない。
この前提に立つと、看護師がすべての相手との共感を得ることを期待することは難しい、ということになる。
しかし、トラベルビーはどんな人間関係のなかにでも存在する類似性として、「それぞれの人は、人間であるということ」、そして「人間として同一の基本的ニードをもっていること」をあげている。
看護師は、共感の範囲を広げるために自らの引き出しを増やしていけるように学習することが求められる。体験をとおした深い人間関係の構築への努力を惜しんではならない。
②他人を理解したいという願望
他人を理解したいという願望そのものが、共感への動機づけになる。さらに、以下の2つの特性を通じて、共感のプロセスは高められていく。
- 共感は、それ自体が関係性の確立に導くのではない。そこに至る重要な段階である。
- 共感するということは、他人を知的に理解し、行動を予測することであるが、それだけでは十分ではない。共感は、次に続く同感への先駆けである。
4同感
同感(phase of sympathy)は、共感を超えた段階である。同感には「その人の苦悩を和らげたい」という基本的な願望がある。
「協力あるいは助力の願望が加わったとき、共感は同感になるのである」(1971)
sympathyは「同情、哀れみ」とも訳され、専門職としての看護師がその感情をもつことはふさわしくない、という風潮があった。
同感の重要な要素である「emotional involvement」(情緒的関与、感情的に巻き込まれること)をタブーとする雰囲気は、現在の臨床現場にも存在しているのではないだろうか。
専門職として患者とかかわる過程には情緒的関与はふさわしくない、とする風潮がある。そうなると、情緒的にかかわり合わないことが「専門職としての看護師と患者の関係」であると誤解されてしまう。
トラベルビーはこのような誤解の原因を、「看護師が自分自身を防衛するために、不安の根源(主として患者)から距離を置こうとすることにあるではないか」(1971)と述べている。
確かに、合理化や知性化という防衛機制は、看護師の不安レベルを軽減させる。
しかし不安を回避するのではなく、それを直視し、成長のために役立てることが必要である。自らの不安を直視することが、成熟した情緒的関与の方法を身につけるための学習なのである。
同感によって専門職としての看護が揺らぐことはない。むしろその専門性が高まり、看護師の人間としての成長につながっていくことになる。
「同感するとき、人は巻き込まれてはいるが、それによって無能力になっているわけではない」(1971)のである。
もちろん、患者の問題に情緒的に関与するなかで、相手の態度に一喜一憂し、相手が憂うつになれば自分も憂うつになってしまう、というような態度などは、「同感しすぎている」ととらえられることもある。
しかし、これは「同感」ではなく、むしろ「最初の出会い」の段階で失敗し、相手の独自性を知覚できていないのである。
援助的関係を確立すべきときには、看護師は情緒的に関与しなければならない。
ケアを必要とする人との関係のなかで、自分が何を感じ、何を考えているかを知り、また看護場面で達成すべき目標を理解することができていれば、情緒的関与が看護行為を妨げることはない。
同感は、「関心や個人的配慮、あなたの苦痛を和らげたいという気持ちを伝達すること」である。
その体験の結果として、ケアを必要とする人は看護師を「自分を援助してくれる人」「自分に独自の人間として関心をもっている人」、そして「自分を手助けする術を知っている人」として信頼しはじめる。
そこで、看護師は援助的な看護行為を創造していくのである。
5ラポール
ラポール(phase of rapport)は、“関係性”の同義語として、これまでたどってきた対人関係の4段階を超えたものである(図1)。
図1人間対人間の関係
「看護師と看護を受ける人とが同時に体験する、プロセス、出来事、体験」と定義づけられる。
相互に関係のある思考や感情から成り立っており、その思考、感情、態度は、人から人へ伝達されるものである。
ラポールとは、人間対人間の関係の経験的な側面である。言い換えれば、人間対人間の関係は、看護師と看護を受ける人とが、①最初の出会い、②アイデンティティの出現、③共感、④同感、という段階を経て、ラポールの段階に達したときに確立されるのである。
患者を援助する際に看護師が必要な知識や技能をもっていなければ、いくら親密な関係を結ぶことができたとしても、ラポールとはいえない。
人間対人間の関係は「看護の目的を達成するために」確立するものであり、関係を築くこと自体が目的ではないのである。
人間関係の発展に伴い、看護師と患者との間には治療的関係に向かっていく力が蓄えられていく。ラポールには達したけれども、患者の苦痛は緩和されなかった、ということはありえないのである。
また、お互いに好意をもつことがラポールの条件ではない。もちろん、看護師も人間なので、自分たちのしたことを認めてほしいという気持ちをもつのは当然である。
しかし、自分のしたことに感謝の気持ちを示してくれたからといって、それをラポールとはいえない。
ラポールとは、ただ単に他人とうまくやっていけるかどうかの問題ではない。お互いの協力の問題でもない。
看護師は、単に「患者から感謝されたい」という欲求以外の看護活動の動機をもたなければならない。看護師は、人々をケアし、その人たちやその人たちの健康について考える存在であるのだから。
ラポールに達するためには、看護師は①患者の援助に必要な知識をもち、②患者の独自性を知覚し、それに反応し、③その人がかけがえのないただ1人の人であることを認める能力をもたなければならない。
ラポールに達した結果、看護師と患者は病気による苦難を共有し、それに対処するための希望や勇気をもつことができる。そしてその体験を通じて、互いに人間的な成長を遂げることができるのである。
6コミュニケーション
人間対人間の関係を確立するためには、看護師はコミュニケーションを利用する。
コミュニケーションとは、看護師が人間対人間の関係を確立することができるようにし、そのことによって看護の目的を実現させるプロセスである。
コミュニケーションの技法については、『Interpersonal Aspects of Nursing』のなかで詳しく説明されている。
7看護師同士の話し合い
トラベルビーの看護理論を実践するうえで、カンファレンスは非常に重要になる。
たとえば、人間対人間の関係を確立するなかで、《最初の出会い》の段階では、相手を先入観なく独自の個人としてみる能力は、新人看護師のほうがすぐれているとトラベルビーは述べている。
経験を積むことが、種々のステレオタイプの見方を生み出し、看護師の目を曇らせてしまう傾向にあるからだ。
一方で、次の段階である《共感》や《同感》は、さまざまな経験を積み、引き出すべき共有体験を多くもっているベテランの看護師のほうがそこに到達する技術をもっているといえる。
このそれぞれの短所をフォローし、結果としてレベルの高い看護を提供できるようにするためには、日々看護の現場で看護師同士が患者について、こまめに話し合いをすることが必要なのである。
また、《同感》の過程で、情緒的関与は必要不可欠であるけれども、看護師自身は自分が何を感じ、どう考えているのか、そしてその看護場面における看護の目標は何なのかということを意識していなければならない。
人間が最も理解しにくい相手は自分である。一緒に看護を展開する仲間に対し、その人が感じていること、陥っている状況を客観的にみて助言するのも、看護師の重要な職務である。
看護師同士が、患者一人ひとりについてだけでなく、看護師一人ひとりについても、十分な話し合いをもつことは、看護の過程において非常に大切なことなのである。
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トラベルビーの看護論から得るもの
トラベルビーは、「患者」「看護師」というカテゴリー化をせず、どちらも「ただ1人の人間」であることにこだわり続けた。
彼女は、援助を必要とする人の独自性を知覚することが看護のプロセスの始まりであると説いている。
人間対人間の関係を確立する責任を負う看護師の資質を厳しく追及した看護理論に触れると、身の引き締まる感がある。
一方でトラベルビーは、看護師自身も1人の人間である、と訴えている。人間対人間の関係性は、援助を必要とする人だけでなく、看護師自身にとっても非常に重要なものなのである。
勤務している間、看護師は人間ではなくなっているわけではない。援助を必要とする人との関係、ともに援助をする看護師の仲間との関係などをとおして、看護師自身がもつニードを満たしていくことも不可欠だといえる。
臨床の現場で、私たちは患者の思いが理解できないことに戸惑い、懸命に行う援助が報われないことに呆然とする。
そしてそのような思いをもったこと自体に、専門職としての資質のなさを痛感し、自信を失ってしまう。
しかしトラベルビーは、そのような思いをもたないように仕事をするのではなく、その苦悩を体験することでしか看護師としての成長はありえない、と強調している。
患者だけでなく、看護師の人間性の追求にも言及したトラベルビーの看護論の根底には、看護の効率化、マニュアル化のなかで迷い、立ち止まってしまう現代の看護師たちへの強いエールが流れている。
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看護理論のメタパラダイム(4つの概念)
1人間
人間(human being)は、唯一でかけがえのない個人として定義される。
いま、この世界においてただ一度だけの存在であり、過去に存在した、あるいはこれから存在するであろうどんな人とも、似ているけれども同じではありえない存在である。
人間とは、他人を知る能力をもっていながらも、決して他人を完全に理解することのできない存在である。
すべての人間は、その存在だけで価値をもつ。ほかの人を評価する基準や知識をもっている人はいない。
患者
患者(patient)という言葉は、ステレオタイプであり、実際に「患者」というものは存在しない。
存在するのは、その人にふさわしい援助を与えることができる人間からのケアやサービス、援助を求めている個人としての人間である。
看護師
看護師(nurse)もまた、1人の人間である。
看護師は、人が病気の予防や健康の回復、病気のときの意味を発見、最高の健康状態の維持に必要な専門的知識をもち、それを看護の場面で使うことができる。
専門的な看護実践者
専門的な看護実践者(the professional nursepractitioner)とは、自分の行動ややり方をコントロールしながら、知的に患者の問題を取り組む方法と、自分の治療的な利用とを学んだ看護師を意味する。
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2環境
トラベルビーは、環境(environment)を明確には定義していない。
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3健康
健康(health)には2つの異なる基準がある。主観的健康と客観的健康である。
主観的健康とは、個人的に定義づけられる。すなわち、自分の身体的・情緒的・精神的状態について、それぞれの人が受け止める評価そのものである。
客観的健康とは、診察や臨床検査による測定や、心理カウンセラー等の評価によって明らかにされる病気や身体障害、苦痛や苦悩を与える症状がないことを指している。
病気
トラベルビーは、“病気(illness)”を健康でない状態の定義としては用いず、病気という人間の体験を追及した。
病気の主観的基準は、人間が病気をどのように自覚するかによって評される。客観的基準は病気が個人に与える外面的影響によって定められる。
苦難
苦難(suffering)とは、不快の感覚のことである。
単なる一時的な心理的・身体的・精神的不快から、極度の苦しみまで、そして苦しみを超えた絶望的無配慮という悪性の段階、さらには無感動的無関心という末期的な段階まで広い範囲に及ぶ。
苦難は1つの連続体である。
希望
希望(hope)とは、目的に到達したい、あるいは目標を成就したいという欲望に特徴づけられた精神状態である。
そのなかには、その目的や目標は達成できるというある程度の期待が伴っている。
希望は、他人への依存、選択、願望、信頼と忍耐、勇気と関係をもち、未来志向的なものである。
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4看護
看護(nursing)の定義については、前述のとおりである。看護の機能については
A 病気や苦難を予防したり、あるいはそれに対処できるように、個人・家族・あるいは地域社会を援助すること
B 病気や苦難のなかに意味を見いだすよう、個人・家族・あるいは地域社会を援助すること
と定義されている。
看護上のニード
看護上のニード(nursing need)とは、専門的な看護実践者によって満たすことができ、看護実務の法規定の範囲内にあるような、患者(あるいは家族)の何らかの要求である。
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看護理論に基づく事例展開
トラベルビーと看護過程
トラベルビーの専門分野は、精神科看護であった。したがって、彼女の理論では人間の身体的側面よりも精神的側面に焦点をあてて展開されている。
しかしトラベルビーは、『Intervention in Psychiatric Nursing』のなかで、「看護の目的を達成するために、対人関係のプロセスを利用するという点では、精神科看護もほかのあらゆる分野の看護も変わらない」と述べている。
プロセスとは、広義に看護の体験的側面、つまり「看護師─患者間に起こること」と定義されている。
看護過程とは、ある目標へ導く一連の行為、あるいは作用である。この行為あるいは作用は、①観察、②解釈、③意思決定、④看護行為、⑤評価、であるとされている。
それぞれのプロセスには重なり合いがみられるため、現実に各段階の境界ははっきりしていない。プロセスという用語はバラバラの事象ではなく、むしろ流れを意味しているのである。
1観察
観察(observation)とは、感覚器官および患者に対する直感的反応によって収集される生のデータを指す。体験することは観察の1つの側面で、看護師はデータの解釈や分析をする前に、体験しなければならない。
観察はそれ自体が目的ではない。「疾病の兆候を観察する」のではなく、特定の疾病の症状を体験している人間を観察し、(できれば患者とともに)その主観的体験を確かめる。
2解釈
解釈(interpretation)とは検証すべき問題や仮説を確認することである。
専門職看護師は観察したことの意味について解釈し、その妥当性を確認する。観察は両者のかかわりのなかで行われるため、解釈には自分自身に関する看護師の知識も重要になる。
3意思決定と看護行為
解釈に問題解決・仮説検証の方法や手段に関する判断を含んだものが意思決定である。意思決定と看護行為(decision making and nursing action)は不可欠に結びついている。
看護行為とは意思決定を実行に移すことである。行為とは看護介入のことで、看護師が行う行動や目標達成の方法を指す。
4看護行為の評価
看護行為の評価(appraisal of nursing action)とは、看護の質と有効性を判断し、特定のケアの目標が達成されたかどうかをみることが中心である。
看護行為とその効果に関する綿密で分析的な観察である。
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1型糖尿病で入院する13歳女性の事例
Aさん、13歳、女性。5歳のときに1型糖尿病を発症し、初めて入院した。それ以来、1日4回の血糖測定と、インスリン自己注射を行っている。血糖コントロールが安定しておらず、これまでに何回も、血糖コントロール不良によるケトアシドーシスを起こし、緊急入院をしている。
入院中は、規則正しく生活でき、血糖測定とインスリン注射を行うことができる。しかし、退院して自宅に戻ると、面倒になって何日も血糖測定とインスリン注射をせず、コントロール不良になってしまうことを繰り返している。
中学2年生だが、家庭の事情で転校が多かったことと、不規則な生活リズムが影響し、学校は欠席することが続いている。
人懐っこい性格で、友人をつくることは得意である。
─場面1−
今回の入院は、不規則な食生活のうえ、ほとんど血糖も測らず、インスリン注射も行わなかったことにより、高血糖からケトアシドーシスになったためである。
Aさんと初めてかかわりをもつB看護師は、これまでの病歴を振り返り、Aさんには自分の病気をもっとよく知ることが必要だと考えた。そのため、小学校高学年向けの糖尿病についての本を準備し、Aさんに「よく読んでおいてね」と手渡した。
Aさんは、「わざわざ本を借りてきてくれたの?ありがとう。読んでみる」と答えた。
翌日、B看護師がAさんに「あの本読んだ?」と尋ねたところ、Aさんからの答えは「ちょっと読んだけど、何だか難しかったからやめた」というものであった。
B看護師「えっ?Aちゃん、中学2年でしょ?あれは小学校の子ども向けの本なんだから、読めるでしょう?」
Aさん「そんなこといったって、難しいものは難しいもん。無理!」
B看護師「そんなこといっていたら、いつまでたってもちゃんとできるようにならないよ」
Aさん「いいもん、別に」
B看護師「Aちゃんより、もっと重い病気の子はここの病棟にいっぱいいるよ。その子たちががんばっているのに、Aちゃんができないはずないよ、ね?」
Aさん「でもなぁ……」
その夜、Aさんが病棟の隅で泣いているのを、夜勤の看護師が発見した。
場面1のなかでみえてくるもの
◎最初の出会いの段階
B看護師はAさんについて、過去の病歴を調べている。生活が不規則であること、血糖コントロールが不良であることなどから、糖尿病に対する病識に乏しいと判断した。
Aさんについて「独自の人間」として知覚することができず、先入観をもった出会いになってしまった。
最初の出会いの段階で、お互いをどのように知覚するのかについては、看護師に責任がある。患者のこれまでの経過を知ることと、人間としての出会いとは切り離して考えなくてはならない。
◎観察の不十分さ
B看護師は、「Aさんは、中学2年生なのだから、小学生向けの本なら読めるだろう」と判断している。
しかし、実際にAさんとコミュニケーションをとり、糖尿病についてどのくらいの知識をもっているのか、文章を読む能力はどの程度なのか、学習したことを実践していく能力はどの程度あるのか、などについての「生」のデータを集めることを怠っている。
◎「ほかの人」を自分の物差しで評価していること
上記にも関連するが、B看護師は、自分自身を物差しとしてAさんを評価している。
「自分が中学2年生のときは、これくらいの本なら読めた」「このくらいの内容なら理解できた」という尺度をとおして、Aさんの理解力を評価している。
自分がそうだったから他人もそうだろうという安易な推測や、自分ならできていたのにこの人はできないから努力が足りないのだとする判断は、人間対人間の関係への深まりを著しく障害する。
◎1人の人間としてではなく疾患別のグループとして見ていること
B看護師は、「もっと重い病気の子もいっぱいいるのに、頑張ろうよ」とAさんを励ましている。
しかし、Aさんの疾病やそれによる苦難の体験はAさん独自のものであり、決して病気の種類によってひとくくりにできるものではない。
疾病をどのように受け止め、体験するかはその人自身によるものであり、ほかの疾病を体験している人と比較できるものではない。
このように、場面1のなかでは、人間対人間の関係の確立には至らず、Aさんの苦痛を緩和したり、苦痛の中に意味を見いだしたりするように援助するという看護の目的を達成することはできていない。
ここで注目したいのは、AさんとB看護師との関係は、必ずしも悪くはないということである。
B看護師はAさんに感情移入し、疾病による苦痛を軽減できるよう援助したいという動機をもっていた。また、Aさんは、「私のために本を借りてきてくれたの?」とB看護師の行為に感謝している。
しかし、このプロセスのなかでは、B看護師のかかわりによって、Aさんの精神的苦痛はかえって増してしまった。
─場面2─
Aさんの事例で、C看護師とのかかわりをみていくことにする。
C看護師は、Aさんとのかかわりを自己紹介から始めた。
①自分はこの病棟に勤務する看護師であること、
②Aさんと会うのは初めてなので、いろいろ話をして、Aさんのことをよく知りたいと思っていること、
③自分のことも、知ってほしいと思っていること、
などを話した。
Aさんは、5歳のときに初めて糖尿病と診断され、突然入院になった日のことや、その後、血糖コントロール不良を繰り返していることを話し出した。
「自分でも、どうして家に帰ると(血糖測定やインスリン注射が)できなくなってしまうんだろう、と思う。いつも退院するときは、今度こそ家でもちゃんとやろうと思うけど、家に帰って何日かすると、面倒になってしまう」と打ち明けた。
また、昼間の血糖測定やインスリン注射があり、同級生の目も気になってしまい、ついつい学校に行けなくなってしまうことも話し出した。
さらに、「Cさんは、学校行きたくなくなることはなかった?」とC看護師に尋ねることもあった。
C看護師は、Aさんについてのカンファレンスをチーム内で開催し、まず血糖コントロールがうまくいかなくなる原因をAさんと一緒に考えていこうという計画を立てた。
看護師が毎日少しずつ糖尿病についてAさんに質問をするという方法で、Aさんが糖尿病という疾病をどのように受け止めているかを確認した。
また、生活パターンを振り返り、Aさんがいま楽しいと思っていることは何か、どのような希望をもっているか、さらに、糖尿病によってどのような苦痛を感じているかを話し合った。
そのことをとおして、Aさんが考えていることについて、以下の内容が浮かび上がってきた。
- 最も大切に思っているのは、いまの友人関係を続けていくこと
- 現在、強い身体的苦痛は感じていないこと
- インスリンをいちいち打たなくてもよい治療法が、そのうちできるだろうと考えていること
- 眼科の診察結果から「将来失明してしまうのではないか」という大きな不安を抱いていること
これらのことから、現在糖尿病による身体的苦痛を感じていないAさんが、規則的な血糖コントロールなどを身につけるためには、情報の伝達よりも、むしろ糖尿病とそれに伴う生活改善に意味を見いだすような援助が必要であると考えられた。
Aさんにとって血糖測定やインスリン注射、生活の改善は、糖尿病によってもたらされた“面倒なこと”でしかなかったのである。
C看護師をはじめとする看護師たちは、Aさんが不安に感じている「失明」という事態は、血糖をきちんとコントロールできれば予防できるということを、Aさんに繰り返し説明した。
また、友人と食事を摂るときも好きなものを食べていいことを話し、しかしそのためには、そのときの血糖を知り、正しくインスリン注射することが必要であることを話した。
「糖尿病食は、バランスのとれた食事だから、友だちにも献立をアドバイスしてあげられるよ」という看護師の提案に、Aさんは「そうか!じゃあ夏休みの自由研究は『バランスのとれた食事』にしよう。これならもう何年も聞かされているから、すぐにできるよ」と答え、取り組んだ。
Aさんにかかわるなかで、C看護師は「何にも心配しなくてもいいよ」「そんなこと大丈夫よ」とは決していわなかった。
しかし、以下のように話していた。
「Aちゃんの気持ちはちょっとしかわかってあげられないかもしれないけれど、いつでもそばにいるからね。私たちは、Aちゃんの手助けをするためにいるのだから、しんどいときには頼ってね。ずっと血糖コントロールするのは難しいけれど、どうしたらできるか一緒に考えていこうね」
それから数日してから、AさんはC看護師にこういった。
「骨折していた同室の子が、退院した。みんなに『元気になってよかったね、頑張ったね』といわれていた。でも、自分の病気はいつまでたっても『頑張ったね』といわれることはない。これからもずっと『頑張って』といわれ続けるのだと思うと、悲しくなった」
その後、Aさんは退院した。それからも何度か入院しているが、確実に血糖コントロールを良好に維持できる期間は延びてきている。
場面2のなかでみえてくるもの
①人間対人間の出会い
Aさんとのかかわりの前に、C看護師は経過を知ろうとしてはいるが、出会いの場面では、まずAさんに知ってもらおうという意思表示をしている。
自分はAさんに人間として興味があるということを伝える努力をした結果、Aさんも「Cさんは学校に行きたくなくなることはなかったの?」と人間としてC看護師に関心を示している。
②同感への段階
C看護師を中心として、看護師らはAさんの人となりを知りたい、そして糖尿病という疾病を体験することのなかに意味を見いだせるように援助したい、という思いをもった。
これらは看護師であるということに由来する欲求である。
Aさんをただ評価するのではなく、Aさんの置かれている状況や受け止め方を観察し、そのどこに意味を見いだすかということをともに考えていく過程を共有していた。
③Aさんの気づき
退院前にAさんは、「自分は一生『頑張ったね』といってもらえない」と訴えている。これは否定的な感情ではある。
しかし、別の側面からみると、糖尿病が慢性疾患であることをAさんなりに受け止めはじめているということである。
事実を受け止めることが、それに意味を見いだすことへの第一歩になるのである。
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おわりに
トラベルビーが活躍したのは、いまから40年以上前である。
彼女は、無感動的無関心を示している状態の患者は、大出血しているのと同じくらい緊急の援助を必要としていると説いた。
苦しむ人の最も近くにいるのは看護師であるとし、その責務と必要な資質について言及した。
彼女は、最初の論文を発表してからわずか10年あまり後にこの世を去っている。
看護理論とは、実践していくなかで、検証され、さらに深まりや拡がりをもっていくものである。
彼女自身がこの「人間対人間の関係モデル」をさらに深く追及する時間がなかったことは、非常に残念である。
しかし、「看護師が、どんな体験のなかにも意味を見いだすことができると信じていなければ、どうやってほかの人々を援助できるのか」と訴えていたトラベルビーの言葉を借りるならば、彼女が若くして亡くなったことも、後世を生きる私たち看護師にとって何らかの意味をもっているのだろう。
その意味を見いだし、いまだ多くの看護現場で達成されていない「人間対人間の看護」を確立することが、私たち看護師に課せられた課題である。
ジョイス・トラベルビー(Joyce Travelbee)は、1926年、アメリカに生まれ、1946年にニューオーリンズ州の看護学校で看護基礎教育を修了した。
その後、精神科の看護師として、また精神科看護の教育者として活躍した。
1952年、ニューオーリンズにあるディポール病院付属学校で精神科看護を教えたことをスタートとして、チャリティ病院看護学校、ルイジアナ州立大学、ニューヨーク大学、ミシシッピ大学で教鞭をとり、1970年、ニューオーリンズのホテルデュー看護学校でプロジェクト・ディレクターになった。
一方、1956年には、ルイジアナ州立大学で学士号を、1959年にはエール大学で修士号を取得している。
1971年にはルイジアナ州立大学に再入学し、1973年にはフロリダで博士課程の勉強を始めたが、その年の暮れに47歳の若さで亡くなった。
ルイジアナ州立大学看護学校の卒後教育の指導者として活躍しているときであった。
著作活動を始めたのは1963年からである。
1966年と1971年には『Interpersonal Aspects of Nursing』(『人間対人間の看護』)が、1969年には『Intervention in Psychiatric of Nursing』が出版されている。
1979年にはドーナ(M.E.Doona)によって『Travelbee’s Intervention in Psychiatric Nursing』(『対人関係に学ぶ看護』)が編集・出版されている。
理論が生まれた背景
トラベルビーは精神科ナースとして、あるいは看護教育者としての自身の経験から、さまざまな問題を提起した。
看護の専門性が問われるなか、看護師が「心をもつ人間」を相手にしているのだということ、自らが相対する人間への心配りを見つめ直す必要があることを強く訴えた。
また彼女は、自らが看護師として生きる時代が、看護の歴史において非常に重要な転換点であると考えてもいた。
影響を受けた人々
トラベルビーの理論に大きな影響を与えた看護理論家は、アイダ・ジーン・オーランド(Ida Jean Orlando)と、ヒルデガード・E.ペプロウ(Hildegard E.Peplau)である。
エール大学修士課程でトラベルビーを指導したオーランドは、看護は患者と看護師の力動関係─患者の行為が看護師の行為に影響し、看護師の行為が患者に影響を与える相互関係─のうえに成り立っていると説いた。
そして、この看護の過程を「患者の言動」「看護師の反応」「看護師の活動」の3要素に分け、それらがお互いにかかわり合っている関係が看護過程であるとした。
一方、ペプロウは、看護を人間関係の側面からとらえ、看護師と患者との関係を治療的な対人的プロセスであると最初に打ち出した看護理論家である。
ペプロウは、著書『Interpersonal Relations in Nursing』(『人間関係の看護論』)のなかで、看護援助のプロセスを明確にし、看護の独自な機能を示すことによって、専門職としての看護を確立しようとした。
トラベルビーの看護理論は、オーランドとペプロウの対人関係論の延長線上にあるといわれる。
この2人の考え方を、彼女独特の方法で統合することで、看護師と患者の関係に関する自らの看護理論を開発している。
また、トラベルビーは、ヴィクトール・E.フランクル(V.E.Frankl、1905〜1997)やロロ・メイ(R.May)、カール・ヤスパース(K.Jaspers)らに代表される実存主義思想にも強く影響を受けている。
フランクルは、強制収容所での体験を綴った『夜と霧』によって世界的にその名を知られた精神医学者であり、哲学者である。
この著書のなかで彼は、「人生には幾多の困難や苦悩があるにもかかわらず、かぎりない意味がある」ということを具体的に示そうとした。
苦悩のなかで人間を支えるのは「自分の人生を意味ある人生にしたい」という「意味への意思」であるとし、それを呼び起こす方法を「ロゴセラピー(logotherapy)」とよんだ。
フランクルは次のように述べている。
「医師が人生の意味を処方できるわけではない。しかし、患者が自分の人生に自分で意味を見出せるように働きかけることは、医師の使命の1つである」
ロゴセラピーはさまざまな側面をもつが、その1つとして「態度変更への援助」がある。
「我々の人生の質は、さまざまな苦悩や出来事ではなく、それらに対する自分自身の態度によって決まる」
トラベルビーの看護理論には、これらの概念が強く反映されている。
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本連載は株式会社サイオ出版の提供により掲載しています。
[出典] 『新訂版 実践に生かす看護理論19 第2版』 編著/城ヶ端初子/2018年11月刊行/ サイオ出版