腹壁鈎(鞍状鈎)|鈎(6)
手術室にある医療器械について、元手術室勤務のナースが解説します。
今回は、『腹壁鈎(鞍状鈎)』についてのお話です。
なお、医療器械の歴史や取り扱い方についてはさまざまな説があるため、内容の一部については、筆者の経験などに基づいて解説しています。
黒須美由紀
〈目次〉
腹壁鈎は皮膚から腹膜までが厚い部分で使用される半円状に曲がった鈎
馬の鞍のような形をした術野を確保するための器械
鈎(鉤:こう)類は、切開創を開創し、術野を確保するために使用するための器械です。牽引(組織を引っ掛けること)したり、臓器や組織を圧排(=術野周囲の臓器や組織を除けること)することで、術野や視野を確保して手術の操作性を上げます。
腹壁鈎(鞍状鈎)は、鈎部分が馬の鞍のような形をしている鈎類です(図1)。
図1腹壁鈎の鈎部分
開腹手術中、皮膚から腹膜の厚い部分に引っ掛けて使用する
腹壁鈎は、外科や婦人科・泌尿器科など、開腹を伴う手術で使用する器械です。特に、皮膚から腹膜までが比較的厚い部分で、使用することが多いようです。例えば、下腹部を大きく開腹する結腸の切除術などで使用されることがあります。
開腹後、半円状に曲がった鈎の内側に、腹壁(=皮膚から、皮下組織、筋層、腹膜)を引き掛けて、腹壁を牽引します。
腹壁鈎の誕生秘話
鞍状鈎と腹壁鈎、2種類の呼び名がある
腹壁鈎がどのように開発されたのか、その詳細については、残念ながら書き残されたものは見つかりませんでした。しかし、わが国では、鈎部分の馬の鞍のような形状から「鞍状鈎」と呼ばれることもありますが、腹壁を牽引・圧排する用途から「腹壁鈎」とも呼ばれています。
この腹壁鈎には、「フリッチ」という人名が付けられた「フリッチ(氏)腹壁鈎」という名称で製品化しているメーカーも数多くあります。腹壁鈎の誕生秘話を探るために、フリッチという人名から紐解いていくことにします。
優れた産婦人科医であり教育者でもあるDr.フリッチ
腹壁鈎に冠されたフリッチという名前は、Heinrich Fritsch(ハインリッヒ フリッチ〈フリッチュとも〉;1844-1915)のことを指していると考えられます。この人物は、1800年代の終わり頃からドイツで活躍した産婦人科医で、臨床と研究で高名なだけでなく、教育者としても著名な医師でした。国外に向けて翻訳出版される手術の指導書を執筆したり、その後に活躍した後進世代を多く指導した、優れた教育者としてもその名を残しています。
ほかにも、1948年に、イスラエルの医師によって詳述されたアッシャーマン症候群について、Dr.フリッチは、1894年の時点ですでに記録を残していました。現在では、アッシャーマン症候群を「フリッチ症候群」と呼ぶ場合もあるほどです。また、子宮弛緩症による出血の止血を目的とした圧迫法にも「フリッチ圧迫法」という名前が残っています。
精力的に活動していたDr.フリッチは、当時、すでに存在していた筋鈎(ランゲンベック扁平鈎)を自らの手技に合わせてより使いやすく、患者さんを無用に傷つけることなく使用できるように腹壁鈎を開発したと、筆者は推測しています。
memo婦人科手術で行われるファンネンスチール切開法を開発したのはDr.フリッチの弟子
Dr.フリッチが指導した後進として、Hermann Johann Pfannenstiel(ヘルマン・ヨハネス・ファンネンスチール;1862-1909)という人物が有名です。
Dr.ファンネンスチールは、手術時の切開方法の一つである「ファンネンスチール切開」という横切開の方法を開発しました。この切開方法は、「ビキニライン切開」とも呼ばれ、切開部でヘルニアを起こしにくいほか、美容的にも優れているため、現在でも、比較的年齢の若い患者さんの婦人科手術で行われています。
腹壁鈎の特徴
サイズ
腹壁鈎は、サイズが異なる多くの種類のものがあります。成人の手術に使われる腹壁鈎のサイズは、全長が20cm~25cm程度で、鈎の幅が1cm~6cm程度です(図2)。
図2成人手術に使用される腹壁鈎のサイズ
形状
腹壁鈎は、「鞍状」という名前のとおり、鈎部分が全体的に半円状に曲がった形状で、角が丸くなっています。これは、腹膜を損傷しないようにするためです。また、鈎の外側(背の部分)には浅いくぼみがあります。
材質
腹壁鈎は、ステンレス製です。
製造工程
腹壁鈎の製造工程は、ほかの筋鈎と基本的に同じです。素材を型押しし、余分な部分を取り除き、各種加工と熱処理を行い、最終調整を行います。ただし、鈎の部分の彎曲(わんきょく)を作り出す工程が、追加されます。
memo腹壁鈎の独特のカーブは職人技
腹壁鈎は、鈎の部分が縦方向と横方向に彎曲(カーブ)している独特の形状をしています。単に、金属の板を一方向に折り曲げるだけではこのカーブを作り出すことはできません。
現在では、工作機械による加工(2回に分けたプレス加工)もできるようになっているようですが、以前は、職人さんが一つずつ丁寧に、2本(1組)が同じ形状になるようにカーブを作り出していたのではないでしょうか。まさに職人技です。
価格
腹壁鈎の価格は、取り扱いメーカーやサイズによって違いはありますが、一般的なサイズのもので、1本あたり8,000円~20,000円程度です。
寿命
取り扱いメーカーによっては耐用年数の指定がありますが、術場での取り扱い方や、洗浄や滅菌の過程での扱い方によって寿命は変わります。長く使用するためには、日々の取り扱い方に注意が必要です。
腹壁鈎の使い方
使用方法
腹壁鈎は、人力によって術野を広げて、視野を確保する器械です(図3)。
図3腹壁鈎の使用例
人力で行うため微妙な調節が可能で、角が無く組織を傷つけにくいので、帝王切開の際の子宮切開時や、子宮全摘術などのリンパ節郭清時の開創鈎として用いられることもあります。
類似器械との使い分け
腹壁鈎と同様に、開創鈎としてポピュラーなものに「筋鈎(扁平鈎)」という鈎があります。筋鈎は、柄部分が平らで、鈎部分の先端にはストッパーが付いていて、筋層までの引っ掛けた組織が滑らないようになっています(図4)。
図4腹壁鈎と筋鈎(扁平鈎)の違い
*参考:『筋鈎(ランゲンベック扁平鈎)|鈎(1)』
memo使用用途によって多数の種類がある鈎を使い分ける
術野や視野の確保・圧排のために使用される鈎類には、さまざまな種類があります。臓器や役割ごとに違いがあると言っても良い程です。つまり、使いたい場所や除けておきたい臓器ごとに、鈎を使い分けていると言うことです。
禁忌
鈎類は、使用する臓器や役割など、それぞれの用途に合うように工夫して作られた器械です。そのため、腹壁鈎の用途(腹壁の牽引・圧排)以外に使用するのは不向きです。
ナースへのワンポイントアドバイス
どんな工夫がされていて、どこで何のために使用される器械なのかを理解しよう
腹壁鈎の外観から取り間違えるようなことはあまりないと思います。器械出しの看護師は、どこに使われる鈎で、何のためにどういう工夫がされている鈎なのかなど、腹壁鈎について理解しておくと良いでしょう。
memoドクターによって呼び方が違うため迷うこともある
ドクターによっては、「腹壁鈎」と呼ぶ方と、「鞍状鈎」と呼ぶ方がいて、慣れないうちは迷うかもしれません。複数の名称がある器械であることを、理解しておきましょう。
使用前はココを確認
腹壁鈎は、鈎の先端の角が丸くなっていることが特長の一つです。この部分が組織の損傷を防ぐため、鈎の先端の角に歪みや損傷(欠損含む)がないかを確認しましょう。
術中はココがポイント
手渡す際は、腹壁鈎を下向きにして鈎の部分を持ち、柄部分がドクターの手のひらに収まるように渡します。このようにして手渡すと、ドクターはすぐに鈎引きができます。
腹壁の厚みを見て、どのサイズの腹壁鈎が適しているのかを判断し、適当な大きさ・幅のものを渡せるようにしましょう。
使用後はココを注意
術野から腹壁鈎が戻ってきたら、まずは欠損や破損など損傷がないかを確認します。
この時点で問題があれば術野の確認が必要です。問題がなければ、生理食塩液などを含ませたガーゼで、血液や組織などの付着物を拭き取っておきます。
片付け時はココを注意
洗浄方法
下記(1)~(3)までの手順は、ほかの器械類の洗浄方法の手順と同じです。
(1)手術終了後は、必ず器械カウントと形状の確認を行う
(2)洗浄機にかける前に、先端部に付着した血液などの付着物を、あらかじめ落としておく
(3)感染症の患者さんに使用した後は、あらかじめ付着物を落とし、消毒液に一定時間浸ける
(4)洗浄用ケース(カゴ)に並べるときは、鈎が引っかからない場所に置く
腹壁鈎は、2本まとめて管理します。洗浄用ケース(カゴ)に並べる場合は、ほかの器械と重ならないように余裕を持って置きます。ほかの筋鈎類と並べて置くか、分けて置くかは、後々の滅菌工程を考慮して判断しましょう。
滅菌方法
ほかの器械類と同様に、高圧蒸気滅菌が最も有効です。滅菌完了直後は非常に高温になっているため、ヤケドをしないように注意しましょう。
滅菌パックで滅菌する場合、2本1組になっていることを確認しましょう。
- 筋鈎(ランゲンベック扁平鈎)|鈎(1)
- 2双鈎・単鈎|鈎(2)
- スパーテル|鈎(3)
- 肝臓鈎|鈎(4)
- ウィスカー鈎(肺圧排鈎)|鈎(5)
- ケント鈎|鈎(7)
- ⇒『器械ミュージアム』の【記事一覧】を見る
[参考文献]
- (1)高砂医科工業株式会社 鉤類(カタログ).
- (2)石橋まゆみ, 昭和大学病院中央手術室 (編). 手術室の器械・器具―伝えたい! 先輩ナースのチエとワザ (オペナーシング 08年春季増刊). 大阪: メディカ出版; 2008.
[執筆者]
黒須美由紀(くろすみゆき)
元 総合病院手術室看護師。埼玉県内の総合病院・東京都内の総合病院で8年間の手術室勤務を経験
Illustration:田中博志
Photo:kuma*
協力:高砂医科工業株式会社