医療と宗教を身近に―「お坊さん医師」が考える死との向き合い方

「医師」であり「僧」である、「僧医」という医療者を知っていますか。医療者と宗教者の二つの視点を持つ医師として、とくにホスピスや緩和ケア分野で注目される存在です。

医療者の死との向き合い方について、普段はなかなか聞くことのできないお話をうかがってみました。

 

僧医 対本宗訓さん

僧医 対本宗訓さん

対本宗訓さんは、38歳で禅宗の一つ、臨済宗の最高位「管長」に就任。51歳のときに医師免許を取得し、現在は医療法人健永会 明日実病院の院長として、人の「死」に向き合われています。

 

 

医療と宗教を身近に―「お坊さん医師」が考える死との向き合い方

看護の根底には「祈り」がある

―対本さんはご自分のことを「僧医」と名乗られています。「僧医」とは、どのような人のことを言うのですか?

 

対本 「僧医」は、もともと医学史にも必ず出てくる伝統的な存在です。

昔は、仏教の修行とともに医療の知識や技術を持った僧医が、薬草などを処方し人々の苦しみを癒していました。おそらく、当時のことですから加持祈祷等も、「看病」の大きな要素の一つだったのではないかと思います。

 

しかし、現代では患者さんを前に仏の教えを説くだけでは病苦は解決しません。私たち人間は心と体を併せ持った存在です。人の魂に触れることのできる僧が、実際に医師として心と体を併せ診る「僧医」となり存在することが、今の時代には必要ではないかと考えました。

 

―昔の僧医は、看護師のように「看病」もされていたのですね。

 

対本 加持祈祷による「看病」というのは、「祈り」によって病気の平癒を願うものです。

ですが、それが昔の話かというとそうではなく、私は、現代でも「祈り」は医療に介入できると確信しています。補完医療として「祈りの力で病気の回復が早まる」という研究も、欧米では既になされています。

 

―対本さんも、病院で「祈り」をされることがあるのですか?

 

対本 いわゆる宗教儀式のような「祈り」を行うことはありません。患者さんが引いてしまいますからね(笑)。

 

補完医療としての祈り

 

医療に応用する「祈り」とは、別の言い方をすれば「思い」です。

仏教では「思い・言葉・行動」の3つを重視します。そして想念、すなわち「思い」が元となって、言葉や行動として表出するのだと考えます。

そのため1番大切なのは「思い」で、それがまさに「祈り」の根源なのです。

 

ですから、どのような「思い」で看護師さんが看護をしているかは、おそらく患者さんには伝わっているでしょう。たとえ同じ看護という行為をしていても、「思い」によって、その意味や質がまったく違ってくるのです。

 

―そう考えると、亡くなっていく患者さんに対して、「何もできない」のではなく、「思うことはできる」と考えることができます。

 

対本 そうですね。「思い」や「祈り」には現実を動かす力があるということです。

 

―ただ、多くの人に接する看護師だけに、中には苦手な患者さんもおられるかと思います。「思う」ことには、少し慎重になった方が良いのかもしれませんね。

 

対本 私は長年、欧米各国でメディテーション(瞑想)の指導をしてきましたが、向こうの看護師さんの中には、特定の宗教を信仰していなくても日常生活の中に瞑想を取り入れ、「思いをととのえる」ことで看護に活かしている方が大勢います。

 

私は、ぜひこのことを日本の看護師さんにも参考にしていただきたいと思っています。たとえば、マインドフルネス・メディテーションは治療にも応用されている瞑想です。

 

自分自身に揺るがない「軸」をつくる瞑想

―マインドフルネス・メディテーション。初めて聞きました。

 

対本 マインドフルネス・メディテーションは、もともと禅の瞑想の一種です。東南アジアから欧米へと伝わる中で、極めて心理療法的に発展しました。

 

たとえば、自分が「太っている」という自己イメージを持ち極端なダイエットに走る人がいるとします。しかし、他人から見るとそれほど太ってなどいない。その場合には、自分のボディ・イメージが歪んでしまっていることに問題があり、まずは、その認知パターンから解決する必要があります。

 

極端な例だと思われるかもしれませんが、実は、多くの人が多かれ少なかれこのような自分で作り上げた歪んだイメージに囚われてしまっているのです。ときには、自分だけでなく他人を見るイメージにも歪みが生じてしまうことがあります。

 

マインドフルネス・メディテーションは、そうした自他に対する「きれい」「醜い」「好き」「嫌い」などの認知や判断を二の次として、まずはありのままに人や物事を見て、心に浮んだことをスッと横に流していく訓練です。

そうすることで、他人に対する偏った意識などを持つことも少なくなってくるでしょう。

 

―看護ではよく、「患者さんをありのままに捉える」「事実をありのままに捉える」ことが重要だと言われます。今のお話は、そこにも通じてくるような気がしますね。

 

対本 そうですね。心に映ったイメージをスッと流すことができると、過去や未来に囚われることなく、常に「いま・ここ」にフォーカスすることができるようになります。

すると、仕事においても揺るがない自分の「軸」を得られるようになってきます。

 

死はプロセスであると知った父の死

―ところで、対本さんは史上最年少で「管長」という、一派の最高位に就任されています。その役職を辞めてまで医師免許を取得されたのですよね。何かきっかけがあったのですか?

 

対本 それは、35歳のときに体験した「父の死」がきっかけです。

 

―どのような体験だったのでしょうか。

 

対本 私は僧侶という職業柄、死が身近にあったのですが、父の死をきっかけに、実は「本当の死」を何も知らなかったことに気付いたのです。

 

―本当の死……ですか。

 

対本 亡くなる数日前、父の視線は私を通り越して彼方の空間にじっと定まっていました。その時の父はどこか生き生きとした表情をしていて、「あそこに扉があるけど、開かないんだよ」と私に言うのです。

鳥肌が立ちました。

 

死に向かうプロセスとは

 

―お父様は、何を見ていらっしゃったのでしょう。

 

対本 これは後に医師となり、何人もの患者さんの死に立ち会わせていただくようになってから実感したことですが、死が近づくと患者さんの意識はこちらの世界と向こうの世界との間を行ったり来たりするようになることがあります。つまり、「死の準備行動」をしているのです。

 

意識のフォーカスがこれから還っていく向こうの世界、つまり物質レベルではない世界にシフトしているときに、周囲にいるご家族や私たち医療者には見えないものが患者さんの目に映っていたり、あるいは、先に他界した親しい人物と会話をしたりする「お迎え」のような現象が起こります。

 

私がこうした経験を通してわかったのは、「死はプロセスなのだ」ということでした。

生と死は、医師が「ご臨終です」と言った瞬間にガラリと切り替わるものではないのです。

 

―つまり、患者さんはすでに入院中から「死のプロセス」に入っていて、亡くなられた後も、まだプロセスの中にいるということですか?

 

対本 そのとおりです。私は「周産期学」とは逆に、死の臨床的プロセスを描く「周死期学」を提唱しています。肉体的な死によってすべてが終わるのではなく、私たちの生は死後にも存続することを多くの人々にお伝えしているのです。

それにより、患者さんやご家族にとっては「死」が永遠の別れを意味するものではなくなります。その先に、「再会」が待っていると考えることができるからです。

これは、大きな希望となるでしょう。

 

医療者自身がぶれないために死生観を持つ

対本 患者さんの死に立ち会う医療者は、何よりも死生観を養っておくべきだと思います。

人の心が揺れ動くのは当然ですが、医療者が崩れてしまっては医療になりません。患者さんが亡くなる場合など、心の揺れを最小限に留めるためにも自分なりの死生観は必要で、今後は、医療者のためにそういった学びのコースを提供することも考えています。

 

―しかし、日本人は未だに宗教との付き合い方がわからず、自分なりの死生観を持っている人は少ないように思います。

 

対本 そうですね。日本人の宗教に対する向き合い方には何かトラウマがあるようですし、「死」を必要以上にネガティブに考えてしまうところもあります。

 

だからといって、私は宗教団体に入信することをお勧めはいたしません。下手な信仰ならば持たない方がいいとさえ思っています。

必ずしも特定の宗教を信奉するのではなく、むしろ多くの宗教の根底にある「霊性(スピリチュアリティー)」という普遍的なものに触れることが肝要でしょう。

 

それには、たとえば先ほどもお話したように、日常生活の中で瞑想に親しむことも一つだと思います。自分自身の内奥としっかりつながることで、物の見方や受け止め方が安定し、患者さんへの「思い」や対応も深まってくるはずです。

 

ただ、個人の死生観は、特に医療者の場合には、自分なりに持っているに留めるべきでしょう。それを患者さんに押し付けることがあってはなりません。

 

宗教と医療はどう付き合っていくべきか?

―今後は、在宅ケアの流れが加速し、医療者が個人の暮らしに入っていく機会が増えていきます。それにより医療と宗教の関係性も、これまでとは少し変わってくるのではないでしょうか。

 

対本 欧米では、昔からチャプレンという病院付きの牧師さんがいます。医療が病気の治療や身体的苦痛を緩和するのに対し、チャプレンの役割は「霊的苦痛」を緩和することにあります。霊的苦痛とは、「死」という究極の現実に直面した患者さんの、人生や自分の存在意味への問いかけ、罪責感、後悔、絶望感、虚無感、恐れ等です。

 

僧である私自身としては、そうした患者さんの霊的苦痛を緩和するためにも、「もっと仏教が自然なかたちで医療の中に入っていくことができればいいな」と感じています。

 

―ただ、一方では少し前から「ビハーラ」と呼ばれるお坊さんが医療施設で活動することに対し、医療者からは「医療の現場に土足で踏み込んでくる」という、戸惑いの声が聞こえてくることもあります。

 

宗教と医療はどう関わっていくべきか

 

対本 今おっしゃる「ビハーラ」について私はあまり知らないのですが、あくまでも一般論として、何の備えもなく僧侶が医療の現場に入るとしたら、それは大きな問題です。

 

欧米のように、チームの一員として宗教者が医療に参加することが期待されますが、そうするにはきちんとした事前の教育やトレーニングを受けなければなりません。

私自身、そのための会を立ち上げた経験も過去にはあります。

たとえば感染症に対する最低限の医学知識や、倫理的な問題に対する心構え等をしっかりと準備した上で、他の医療専門職と協調して謙虚な姿勢で活動していくことができれば、僧侶に心や魂のケアといった面に置いてかけがえのない役割を託すことができると思います。

 

―対本さんは2016年4月から、スピリチュアルケアに根ざした医療を提供されるため、秋田県にある医療法人健永会 明日実病院の院長に就任されたのですね。

 

対本 はい。これまでは都内のクリニックで医師として保険診療や自由診療等を行ってきましたが、秋田県でも緩和ケア施設のさらなる普及が期待されています。

ニーズがあれば、患者さんに一つの指針を与えられるようなスピリチュアルケアを実践していきたいと考えています。

そして医療と宗教の架け橋となれるよう、自分なりに努めていくつもりです。

 

―今後は、日本人と宗教の関係がもう少し自然な形になっていくといいですね。対本さん、今日はお忙しいところどうもありがとうございました。

 

対本 こちらこそありがとうございました。

 

【聞き手:武末明子】

 

僧医 対本宗訓

1954年愛媛県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業、京都嵯峨天龍寺僧堂で修行僧として過ごし、ヨーロッパなど諸外国で禅指導に携わる。93年臨済宗佛通寺派管長に就任。2000年に帝京大学医学部に入学し管長職を辞任。同大医学部卒業後は内科医、僧医として活動。2010年より2014年まで英国ロンドンにて臨床研究。帰国後、東京都内にリンデンクリニックを開院し統合医療を実践。2016年4月から医療法人健永会 明日実病院の院長に就任。著書に『禅僧が医師をめざす理由』『祈る力』『霊性の医療をひらく』など多数。

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