日本と違いすぎ!?オーストラリア看護師の労働環境

白川優子

看護師・国境なき医師団

 

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「国境なき医師団に入りたい!」という夢を叶えるため、私はオーストラリアに留学し、そのまま現地で看護師として働き始めました。

 

今回は就職先の病院で自信をなくし、「辞めたい」と伝えたあとに起こった奇跡のような出来事についてお伝えします。

 

収入も、休暇もたっぷり。オーストラリアでの驚きの労働条件

メルボルンの街

オーストラリア・メルボルンの町並み(イメージ)。

 

2005年に大学を卒業した私は、ついにオーストラリアの看護師になりました。

 

まず驚いたのは、この国の看護師の素晴らしい労働条件です。

 

収入に関しては、例えば私の知人で、2人の子どもを抱えるシングルマザーが手当の高い週末だけ看護師として働けば生活が成り立つという感覚です。

 

私はというと、卒業後に近所の内視鏡クリニックで週3日の勤務を始めました。

 

それだけでも日本での月給よりも収入が多く、生活は一気に豊かになりました。

 

その後、大きな公立病院に転職し、さらに収入は増えました。

 

公立の場合は経験年数によって報酬が決まり、州内で一律です。私は日本での7年の経験を考慮された上でのスタートでした。

 

収入の高さに加え、休暇の多さには驚嘆しました

 

職場では「次のホリデーいつ?」が同僚の間での挨拶の言葉になるほどです。

 

年に6週間ほどの有給の他に、7~10日の病欠(有給)、さらに4週間に1度のADOと呼ばれる有給もありました。

 

病欠も通常の有給と同じように翌年への持ち越しが可能で、さらに私は転職時、これら全ての休みを転職先の公立病院に持ち越すことができました。

 

おまけに私は週休3日(1日10時間勤務)を取り入れている部署に勤務していたため、休みが豊富なうえに高収入という、日本人看護師にとっては夢のような労働環境でした。

 

残業はというと、その言葉自体が存在しませんでした

 

看護師に限ったことではありませんが、オーストラリアでは会社や上司、規則のために働くという概念がなく、自分のプライベートが全ての中心です。

 

仕事のために自分の時間や身を犠牲にするという考え方は一般的ではないのです。

 

日本人看護師の前に立ちはだかる英語力の壁

さて、こんな好待遇にもかかわらず、公立病院に転職してから半年も経たないうちに私は退職騒ぎを起こしてしまいました。

 

全ては私の英語力の問題です。

 

もともと卒業直後から、私はこの英語力で本当に看護師として働けるのだろうかという不安と恐怖を抱えていました。

 

そこで、ルーティン業務の多いアットホームな内視鏡クリニックを選び、パートでゆったりと勤務をしていたのです。

 

ところが1年も経つと「もっと刺激が欲しい」という欲求が湧いてきました

 

調子に乗った私は思い切って大きな病院への転職にチャレンジしてみたのですが、ここで見事に押し潰されてしまいました。

 

勤務場所はDay Surgery Unitという、日帰りまたは1泊入院の手術や内視鏡治療を行う部署です。

 

緊急事態やプラン変更などへの柔軟な対応が求められますが、私にはまだ「8年目のベテラン看護師」に伴うほどの英語力が備わっておらず、「できない」「分からない」「もうダメだ」というコンプレックスが膨れ上がってきたのです。

 

頻繁に鳴る電話の対応に、どんどん入れ替わる患者さん、そしてその度に行う引継ぎなどが次第に怖くなり、出勤することさえ恐怖となっていきました
 

落ち込む日々のイメージ

自分の英語力に自信がなく、落ち込む日々(イメージ)。

 

ある日、日本語を話せる患者さんがやってきました。そのことが最終的に退職を決断する引き金となりました。

 

「日本語ならこんなにも完璧にきちんと仕事ができる」

 

そう感じた私は、

 

やはり英語で看護師の仕事をするのは限界があるんだ

 

と、これ以上ないというほどに思いつめたあげく、勇気を出して看護師長室のドアを叩きました

 

普段は寡黙であまり会話を交わすことのない看護師長のヘレンを目の前に、退職を告げたのです。

 

ああ、これで楽になった、と思いました。
 

 

突然の退職宣言に、看護師長は…?

彼女は静かに私の話を聞いたあと「この部署であなたにとって一番信頼できる人って誰?」と聞いてきました。

 

私は20人ほどいる同僚たちの顔を思い浮かべ、10歳ほど年下のブルークの名前を挙げました

 

まだ3年目ほどの看護師ですが、一度、一緒に忙しい緊急案件を乗り切ったことがありました。

 

「ちょっと待ってて」

 

とヘレンが席を立つこと数分後、「YUKO!」と勢いよくドアが開くとともにブルークが駆け寄ってきました。

 

間髪入れずに「ごめんね、ごめんね」と彼女は何度も謝ってきました。

 

YUKOが苦しんでいるなんて今まで全然気づいてあげられなかった

 

そう言って抱きしめてくれたのです。

 

ブルークを連れてきたヘレンは私にこのように言いました。

 

「私はYUKOに辞めてほしくない。なぜならYUKOの患者さんに対する優しさはこの部署の中でも目を見張るものがある。

 

これは、どんなに英語が話せようが、どんなに素晴らしい大学で勉強しようが誰にでも身につくものではないんだよ

 

すでに私は大泣きしていました。ヘレンはこう続けました。

 

今日からブルークと組んで一緒に働きなさい

 

ブルークが私の手を握りながら続けます。

 

「今日からもう何にも心配しないで。私が全部サポートするから全部一緒に行動しよう


どんなことでも、どんなにバカみたいに思えることでも安心して何でも私に聞いてね」

 

奇跡でも起こったかのような日でした。私はもうダメだと本当に思い込んでいたのです。

 

周囲の協力を得て立ち上がるイメージ

助けを求めれば、サポートしてくれる人が現れる(イメージ)。

 

温かな環境で、安心して働ける日々

この話はアッという間に部署内に広まりました。その日から

 

「YUKOの英語は俺よりうまいぜ」

 

などと冗談を交えながら励ましの声を受けたかと思えば

 

YUKOは電話が苦手だから取らなくてOKだよね

 

という暗黙のルールもできました。

 

ブルークだけではなく、部署のみんなが私を見守ってくれているようになり、恐怖から一変、安心して働ける楽しい日々に変わっていったのです

 

この日から数年後、なんと私はチームリーダーや新人教育担当、おまけに新規に立ち上げるプロジェクトリーダーを任されるまでに成長していました。

 

ロイヤル・メルボルン・ホスピタルのDay Surgery Unit、ここでの日々は今こうして思い出すだけでも涙が出てきます。

 

こんなにも優しさと愛にあふれた素敵な部署ですが、ついにお別れを告げる時がやってきました。
 

 

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執筆

看護師・国境なき医師団白川優子

埼玉県出身。高校卒業後、4年制(当時)坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学、卒業後は埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7年間看護師として勤務。2006 年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部を卒業。その後約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年より国境なき医師団(MSF)に参加し、スリランカ、パキスタン、シリア、イエメンなど10ヵ国18回回の活動に参加してきた。著書に『紛争地の看護師』(小学館刊)。

 

編集:横山かおり(看護roo!編集部)

 

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