最初の関門は英語!「国境なき医師団」への道

白川優子

看護師・国境なき医師団

 

はじめまして。国境なき医師団の看護師、白川優子です。
これまでシリアやアフガニスタン、南スーダンなど、世界各地の紛争地や被災地で活動してきました。
今回から、一人の看護師として、私がどのような思いでこの道を選んだのか、現地ではどのような活動をしているかなどをお伝えしていければと思っています。

 

shirakawa yuko,白川優子,

2017年、イエメン。2015年に内戦が激化したイエメンは、「世界最悪の人道危機」と呼ばれるほど過酷な地域の一つです。

 

「私も看護婦になる!」

私が国境なき医師団に出会ったのは、7歳。夕食の時間に偶然見ていたテレビのドキュメンタリー番組で、過酷な国々で働く医師たちの姿に惹きつけられて観ていた時でした。

 

番組の終了時に画面に現れた「協力:国境なき医師団」という文字。この名前が、幼い私の心を刺激しました。
「国や人種を超えて命を助けている人たちがいるんだ」という驚きと喜びが、私の記憶に刻まれた瞬間でした。

 

ただ、私が看護師を目指すようになったのは、国境なき医師団の影響かというと実はそういうわけではありません(笑)。
きっかけは恥ずかしいほどにあっけないものでした。

 

当時、私の住んでいた地域では男性は進学、女性は就職という考えが主流で、私はなるべく就職率の良い商業高校を選びました。
1、2年生の間はバンド活動やアルバイトにも励みながら高校生活を満喫していたのですが、3年生になると、それまではのんきに一緒に過ごしていた仲間が、みな真剣に就職活動を始めるようになっていきました。

 

「私もみんなと同じように就職をしなくてはならないのだろうか…」
「そもそも私は何になりたいのかが分からない」

そんな苦しさを抱え続けていたるある日、クラスメイトの1人が、「私、看護婦(当時はそう呼ばれていました)を目指しているの」と教えてくれたのです。

 

「看護婦!それだ!私も看護婦になる!」
私の口が、というよりも、私の心がそう叫んでいました。

 

「私も国境なき医師団に入る!」

白川優子,shirakawa yuko

看護科学生のとき、受け持ち患者さんとご家族と一緒に撮らせていただいた一枚です。

 

私がなぜあの時に「看護婦」という言葉に反応をしたのかは、今でもよくわかりません。ただ、私の心は確実に反応し、喜んでいました。

 

そうと決まったらあとは行動に移すのみ。
商業高校から普通の看護学校への受験は難しかったので、定時制の看護学校を選びました。病院で働きながら、半日は学校で勉強ができるという4年制のシステムです。

 

つらい、きつい!だけど素晴らしい世界、そう思いながら夢中で4年間を駆け抜け、22歳で念願の資格が取れました。

 

晴れて看護師になってからは、「どんなことでも吸収しよう!」とつらいことでも食らいつき、踏ん張りました。そういった経験を経たから、成長できたんだと今は思います(でもつらかった!)。

 

そして、ようやく仕事に慣れてきたころ、国境なき医師団が再び私の目の前に現れたのです。

 

国境なき医師団

国境なき医師団のロゴ。モチーフは、走っている人の姿です。命の危機に直面している人びとのもとに駆け付けるという意味が込められています1)

 

それは突然のできごとでした。国境なき医師団がノーベル平和賞を受賞したというニュースがテレビで流れたのです。
あの、7歳の時と同じ感覚が蘇りました。
「すごい…」ただただ、シンプルにそれだけでした。

 

そして我に返り、思いました。

 

「私も国境なき医師団に入る!」

 

当時、私は26歳。看護師として、ノリに乗っている時期です。若さゆえの勢いもありました。早速、国境なき医師団の説明会に申し込み、東京の会場に足を運びました。

 

その時の私はもうすでに「入る」という決心をしていました。ところが、その説明会で「英語力のレベルを教えてください」と聞かれ、「え?英語??」とキョトンとしてしまったのです。

 

そう、国境なき医師団の活動は紛争地などの海外が中心です。当然、日本語は通じません。
そんな当たり前なことに気が付かないくらい私は「国境なき医師団に入る」思いでいっぱいでした。そして、それに気がついた時、次第に目の前が真っ暗になっていきました。

 

「だったら今、行動を起こしなさい」

しかし、落ち込んでいても仕方ありません。「だったら勉強すればいい!」と、英会話学校に通い始めてみました。 そこから、英語との闘いが始まりました。

 

1年がたち、2年がたち、地道に英会話学校に通い続けて4年…。私の英語力は、海外旅行で困らない程度、つまり挨拶の延長くらいの会話はできるようにはなっていました。しかし、プロの看護師として、人道危機の現場で命を扱うレベルにはほど遠いものでした。

 

「どうしたらいいのだろう」

 

国境なき医師団に入りたいという思いはますます強まり、諦めるという選択肢は私の心がどうしても受け入れません。
でも、もう30歳です。「夢は20代で叶えるもの」だと思っていた私は、途方に暮れていました。

 

そんな時、ずっと私を見ていた母親が言いました。

 

「30歳だからという理由で、もし諦めたとしたら、この先40歳になっても50歳になっても同じことを言いながら後悔するわよ。だったら今、行動を起こしなさい」
彼女は、私に「海外留学」への背中を押してくれたのです。

 

英会話学校に通いながら、勤務していた病院での一枚。当時は産婦人科にいました。

 

実は、海外留学というのは少し前から選択肢の一つではありました。しかし、このような未知の世界への挑戦というものは、本当に勇気がいるものです。金銭面も含め「本当に大丈夫なのだろうか?」といろいろなことが怖くなり、一歩が踏み出せないでいました。

 

ただ、母親の言葉で迷いは払拭されました。「やってみないとわからない」と。

 

2003年の七夕の日。「オーストラリアの看護師になるまで帰らない」と書いた短冊を、成田空港に設置された背の高い笹に飾り付けました。
留学先をオーストラリアに決めたのは「楽しそうだったから」という単純な理由だったのは否めませんが、それでも改めて自分の想いに喝を入れ、そして飛行機に乗り込みました。

 

こうして私は、宿も留学先の学校も決まってないまま、さらに学生ビザすら取得せずに日本を出発したのです。

 

参考文献

 

執筆

看護師・国境なき医師団白川優子

埼玉県出身。高校卒業後、4年制(当時)坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学、卒業後は埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7年間看護師として勤務。2006 年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部を卒業。その後約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年より国境なき医師団(MSF)に参加し、スリランカ、パキスタン、シリア、イエメンなど10ヵ国18回回の活動に参加してきた。著書に『紛争地の看護師』(小学館刊)。

 

編集:林 美紀(看護roo!編集部)

 

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